高松に半引っ越し

自宅⇔香川を行ったり来たりの日々をつづります!

半引っ越しのその後(結末なのか途中なのか)

ひさーーーしぶりにマイブログを見てみたら
最後に記事を更新したのが2017年だった
あの頃はまだ最初のおんぼろアパートを借りていて
末っ子の大学受験とか義母が亡くなったりとか怒涛の日々を送っていたんだなぁと

それから4年後にまさかこんな毎日が訪れるなんて全く考えてもいなかったよね

更新していなかった4年の間に
末っ子は西の大学を卒業して今年都内の会社に就職して東京で1人暮らしを始めたし
実母が胃がんで亡くなって
長女は入籍して結婚したし
長男は留学して大学卒業して就職して転職して彼女と一緒に住み始めた

そして昨年の1月から世界中がコロナ、ころな、こーろーな~~~で
今までにない生活が始まり、1年が経ち、わくちん接種で大騒ぎな最近です。

私は何年か前におんぼろアパートを引き上げようとしたけど、引っ越しの片付けをしている時にネットで
シェアハウスを見つけ急遽そこに引っ越すことにしてそっちに移動して変わらず自宅との行き来保養を
続けておりました…
あ、そーだそのころ夫の心臓弁膜症が発見されて大手術したんだった。
西の病院を探してそっちで手術して手術後のICUICUせん妄になってものすごい大変だった
病院追い出されそうになって必死に抵抗してなんとか入院継続になった
あの時は毎日ゲストハウスを転々として病院に通ってほんとにつらい日々だった・・・
今では夫はその頃のことほとんど覚えてないらしく、たまに話題にだしてもスルー
思い出したくないのか話したくないんだろう。
あたしゃ話したいよ!どんだけ私が大変だったか思い知らせてやりたいよ!
でも思い知らないんだよね、すぐ耳塞ぐから。

シェアハウスに移ってからはわりと長めに1ヵ月くらいとか滞在して楽しく過ごしていたんだけど
去年の1月からずーっと行けなくて家賃だけ払っていてさすがにもったいないしもう気軽に行き来できなくなって
しまったので、ついに撤退することを決めて昨年の9月に全部引き上げて解約した
それもすごく悩んだ
荷物だけトランクルーム借りて入れておこうかなとか
引き払ったらもう2度とここに住むことはできないと思ったし。

結局私の移住は最後まで半移住で完全移住は叶わずに想定外のコロナ騒ぎで終わりを告げたのであった。
最初のアパートを契約したのは2014年の3月だったから6年と半年の半移住生活だった。
改めて数えてみたら結構長い期間やってたんだなーと少し驚いた。
この間、何日間移住先に来れていたのかな。
日数は少なかったと思うし、地元の人にはなじめなかったし悲しいこともあったけど、楽しいこともたくさんあった
私のしていることは誰にも理解されないけどやってよかったと思えるし
特に何も形にはならなかったけど自分の中にたくさんのひもで縛った小さな紙包み(トトロがどんぐりを包んでさつきたちにくれた包みのようなイメージですね)が残ったような気はする。

今でも久しぶりに会う人には一番最初に「まだ四国(範囲でかいな)に行ったりしてるの?」と聞かれる
「コロナで全部引き上げたんですよ~」というと皆さん異口同音に「そうなんだ~」と安堵したような納得したような
返事をされるのなぜなんだろう?

私はもうどこにも行かないのか、行けないのか
考えてるけど答えはなかなか出ないです。

揺れるココロ

義母が亡くなってからの同居人は私からみれば引くことばかりだった
亡くなってしまった義母のまぶたをはさんで何度も目を開けてみたり
顔を触ったり亡くなった顔の写真を撮ったりしていた

喪主挨拶の文章は泣きながら書いたと言ってA43枚にびっしり義母に対する思いがつづられていた
『優しく、愛情にあふれ、お茶目でかわいい母でした』ってべた褒めで
義母に話しかけるように『つらかったね』とか『甘えていいんだよ』とか
全編に息子の愛がこれでもかと溢れすぎていた文章だった
ムスメが全部削ってくれたけど、原稿を読んだらすごーく気持ちが悪くなってしまった・・・

大好きな母親が亡くなったのだから・・・と思おうとしたけど
生理的に嫌悪感をもってしまったのは簡単にはぬぐえず、今も義母の小さい写真さえも見れない・・・

高松にすぐ行こうと思ったものの、1人で夜とか大丈夫かなー心配になり・・・
あっちには友達もいないし1日中1人で話す人もいないし・・・それなら我慢してこっちにいた方が
マシなのかも??なんて考えて・・・

気分が落ちすぎてて活動的なことが全く考えられない
こんな状態であっちに行って不安が強くなったらどうしよう~と心配で
なかなかヒコーキのチケットを取れない~~

今日も夜になりました・・・フゥ

義母のこと

もう一つのブログ
同居人が心臓病になりました。+義母が末期がんという事が昨日わかった。
に詳しく書きましたが、義母は2月ごろからご飯を作れなくなって、ほぼ寝たきりのような生活に
なってしまっていた。知らなくて、イモートから3月になって電話をもらい、急いで病院に連れて行った。
そして3月の初めに義母が入院して、検査の結果末期がんということがわかり、ひと月の入院後、転院の日に
転院先の病院に着いたときに亡くなってしまった・・・・・

入院してから毎日、大丈夫かな?今日呼び出しになったりして。とか覚悟はしていたけど、あまりにも
急であっけなく逝ってしまった。
同居人もイモートも、最後に言葉も交わせずに・・・
でも最後の日は、最初から会話できなかったんだよね。
私が最後に話したのは、亡くなる2日前
普通におしゃべりして、じゃあねって手を振って。
命の灯が消えるのはいつもあまりにも突然で
病院で亡くなるということには父、義父、義母と3人目だけど、ますます違和感を持ってしまった。

震災の年に父と義父が亡くなり、震災から6年で、親が3人亡くなってしまった。
何か感じる方は感じるだろう・・・

そして、義母が亡くなったあとの同居人の様子にドン引きした私
亡くなる前に義母に言われたことも尾を引いて、亡くなったときは悲しかったのに、
義母の葬儀で涙も出なかった
それから義母の写真や遺品を見るのが嫌になって、義母や親戚の話をするのもイヤ、実家にあったものも拒否反応が出てしまう
同居人が大量に持って帰ってくるのが耐えられない~
動悸がするし手がしびれる・・・

ヤバくね?ってことで心療内科へ~
しばらく離れた方がいいということで
高松行ってよーと思ったのに、同居人は完全スルー

は~どうすればいいんでしょか

緊急入院その②

そんなわけで、おサイフとスマホとパンダのてぬぐいと老眼鏡と喘息の常備薬しか持ってない状態で
インフルエンザと喘息と肺炎疑いのため入院となり、感染予防のため病棟の1番端っこの個室に入れられ
病室から出ないように言われて完全に隔離状態。

寝間着とタオルは貸し出しされてるし、コップと歯ブラシとティッシュひと箱はそれについてくるからと。
でもパンツは!?お箸は・・・売店にも行けないので飲み物は病室に行く前に看護師さんが気を利かせて
売店に寄ってくれた時に買ったいろはす500ml1本のみ・・・

初日の夕飯は割りばしがついてくるから大丈夫ですよ~って励まされた初日の夕飯は、おかゆと鮭がメインでした。
とりあえず、割りばしは洗って使うことにしました。
その日の夜は、熱が39度まで上がってしまって、解熱剤イヤだったけど飲んだら熱が下がりすぎて夜中悶絶~
とっても苦しい一夜となったのでした~

でもその後順調に回復し、3日間入院して金曜日の午前中に退院しました。
退院のときも差額ベッド代を巡ってひと悶着あったのですけど、これはまた別の機会に。

あ、パンツや必要なものは、サバッと頼めたSちゃんに買ってきてもらい、おそるおそる匂いを嗅いで押してみた鶏肉は
腐ってなくて、オイシイチキンスープのだしと具になりました~
よかったーよかったー。

しかーしコッチに来てからもう1週間が経ち・・・いつまで地元に帰らねーんだぁ!?とヤクザさんがすごみに来そうでああ、いいかげん帰らねばとヒコーキの値段を見る日曜日の夕方なのでありました・・・・

高松で緊急入院の巻その①

なんだかとってもおひさしぶーりーねーのブログですね。
まあ見ている人もいないし、気楽なものです。
あいてしまった期間のあれこれを書くのもうっとうしいので、
今日はつい先日起こった事件を軸に書いてみようと思います。

先週の金曜日、私は関空に降り立ち、551蓬莱の肉まんを食べていました。
おなかすいてたしがつがつはぐはぐ。こちらでは『豚まん』というんですね。
おいしかったです。
まあそこは置いといて、この日末っ子は入試。ワタシは合格した時のための
寮見学とアパート探しのために。
夕飯は一緒に食べようと末っ子にLINEするもずーーーーっと返事はなく、やっときたのが
『大丈夫です』のひとこと・・・うーん・・これは断っているんだよね?とおもいつつつも
しつこく誘う母。なんばのカフェでずーーーっと返事を待ちましたが・・・

結局1人で安心ご飯のお店を探して夕飯。そして本日の宿、ゲストハウスへ。
疲れたわ~~
でも明日の寮見学も、物件探しも来ないと末っ子。違う大学を見に行くとな。
え?じゃあもう母には会わずに自宅に帰るという事・・・_| ̄|○
息子に棄てられたかわいそうな母なのでありました。

まあ仕方ない・・と土曜日朝から寮の見学、もろ大阪のオバちゃんの寮母さんとがっつり
1時間も話し込み、急いで大学前の不動産屋にバスで移動、そのあと何件か見せてもらい・・
予約金入れてーなーというのをまだ受かってないし~と逃げ切り・・・
大学をうろうろ。学食で遅いお昼を食べ、さてーじゃあ大阪城観光でもするかーと思って駅の方に。
でもこの辺の相場ってどのくらいなんだろう?と近隣の不動産屋を検索したら、よさげなページがヒット、
ココだけ行ってから帰ろうと思ってからが第2の地獄が待っていたのであった。

お店にいつまでもたどり着けず、わからない街をうーろうろ。
やーっと着いたときにはもう3時半を回っていた。そこで若いイケメンパパ営業マンに
話を聞くこと1時間強・・店を出た時は5時近くになっていて、さっき歩いてきた道とは違うまーっすぐな道を
教えてもらってあっという間に駅まで戻ってこれたのでした。

この時点で、オバサンはよろよろろ~
日は暮れてきて大阪城は今回はムリ、預けていた荷物をゲストハウスに取りに行って、
何で高松まで行こうか考えながら地下鉄に乗り込んだのでした。

おなかすいたし、ご飯…と思って昨日見つけておいたカフェのHPを見てみると、
もう閉店時間~(つд⊂)エーン
他にも2、3あったけど、わからない街で探す気力も体力もなく、結局駅ビルの中の無難なお店に。
食べながら、フェリ―の時間を見るとええ―今からじゃ深夜の最終になっちゃう・・・
もう高速バスで行っちゃうか~と思ったらこちらも最終、席あるのか??
急いでチケット売り場に行って残り3席の1席をゲットしました。
出発まで30分しかない中、トイレに行ったり飲み物と次の日の食べモノを探しに広ーいなんばシティを
アッチコッチ行ったり来たり。
やっと座ってバスは発車~
すんごい疲れているのに1番前のドア側の席で前が見えすぎて怖すぎて眠れないという・・・
徳島に入ってからは真っ暗な高速道路をひた走るバスのヘッドライトに照らされる道路を見ながら
ちょっとだけうとうとした3時間半でした。

深夜0時半ごろバスは県庁前バス停に到着し、雨はほとんどやんでいてよかったー。
タクシー乗るのもお金もったいないしぃ。ガラガラ引っ張って手ぬぐいかぶってアブナイおばさんが
通りますよー。
やっとぼろアパートに着いて、お布団敷いて寝ました。
オフトゥン、ありがとう~

次の日、ゆっくり起きて買い物行かにゃーなんもない・・・と近所に買い物。
しかし、午後くらいからなーーんか身体がポッポしてきたのでした。
俗に言う、『発熱』というやつでした。
これが2日間、私を苦しめ、月曜日チョット下がったからとお肉屋さんにポテトサラダと鶏むね肉1枚(特大だった)
を買いに行き。(次の日からこの肉がワタシを苦しめることになるとは)
明日は良くなるかなーと思いながら火曜日の朝を迎えたのであります。

火曜日の朝。
整体師さんが来てくれると言ってたのですけど、こんなきっちゃない部屋見せられねぇーしと
少し苦しいし医者行っとくかーと近所の医院へ。
そしたらね、一通り診察後、大きい病院を紹介するから、そっちに行って!入院になるかもって騒ぎになって
ええええいま?このまま??ハイ、そーです、タクシー呼びましたからって
何も持ってないんですけど?それに昨日買った鶏肉は?もし入院になったら腐る、500円近くしたのに!!?
そんなこと思ってるの運転手さんは知らねぇーし、タクシーはあっという間に大病院?へ。
フラフラなまま控室みたいなところに寝かされて、元気いっぱいの女医さんに「レントゲンとCT撮りましょう!入院ですよ~」って
言われてえーーー!!鶏肉!!パンツ!!と脳内シャウトすることになったのでした。

続く

これからのこと、その他

ずっとここに来れていなかったんだけど。
行き来はしていました。

前回は2月10日から28日まで高松に行っていて、ふとしたことから
ゲストハウスのペンキ塗りを手伝ってました。

この時のことは濃かったんだけど、今となってはもう過去のことみたいに
なってしまって・・・なんで現在進行形で書かなかったのか?あー、あの時
こっちで頼まれた原稿作業に追われてそれどころじゃなかったんだった・・・

で、前回はペンキ塗り+ワード原稿作成に追われ、あまりというか
ほとんどゆっくりする時間はなかったんだよね・・

でも三田先生の講演会のあと、移住ママたちとのランチに1回行ったな。

・・・・・今回帰ってきて思ったこと
私は一人避難ということで最初支援する会の方たちに大変お世話になったけど、
結局それは一時的なもので、自分が弱い立場だということをアピールして力になってもらった
だけで、そのあとの繋がりというものはほとんどなかった。
まあグチになるから詳しくは書かないけど。


地元でもマイノリティ、地方に行けばそれこそマイノリティな『関東からの原発避難者』というくくり。
くくりは捨てて、『避難者』として生きるより、単なる移住者として生きた方が生きやすいんだろう。
でもそれじゃ自分を否定することになるんじゃ?お鍋の底に焦げ付いてはがれないようなコゲを隠したまま
生きてくのってどうなんだろう?

そんなこと考えてたら下書きに入れたままもう何か月もたってしまっていたわー。

2015年 最後の高松

先週の木曜日に来ました。
約ひと月半ぶりぐらいかな?
でもアパートの前に新しくできたカレー屋さんがもう閉店していたり、落ち着けるカフェをみつけたのに明日で無期限長期休暇に入りますとか、商売は厳しいですね。

なんてのんきなことを言ってますが、今回は(も?)同居人から逃げるように急に来てしまったわたす。
突然キレて、怒鳴られたんです。すんげぇーちっちぇえーことで。もー怖くてこわくて、その晩はなかなか寝付けず、やっと眠ったらマジ怖い夢見てうなされてガバッと起きるというね、これマンガじゃなくてホントにそうなるんですよ。

ワタシが悪いの??なぜあそこまでキレるのか??謎です。
でも物理的に離れたら、うなされることはなくなりました。ボロアパートでもあってよかった。ここはわたすのシェルターか?
逃げたい人いたら、よかったら連絡ください。
かくまえます。暖房はちいーさい電気ストーブとこたつしかないですが。
あと冬布団一組しかないですが、敷布団は三枚あります。
夏掛けはこたつの布団になっているので、上に掛けるものはありませんが。
…って、何言ってるんでしょうね。

また年末がやってきました。
大嫌いです、年末年始。ひとつも楽しくない。
高松で年末年始やればだいぶ楽しいと思うけど。自宅地方ではユーウツなだけです。

こっちに来ると、普通に毎日出かけて、普通に買い物をします。でも買いたいものたくさんあるのに、食べる人がいないから買えない。悲しいときーです。

と。ここまで↑↑は昨年の12月に書いて下書きにいれてありました。
いまはもう年があけて20日ほどたっています。
相変わらず、なにも楽しいことのない毎日で。
おまけにとっても寒いです。